A 立石道標(熊野街道道標)
天保9年(1838年)に建てられた「立石道標」。高さはおよそ2m。
道町通りと寺町通りの交差点にあり、夜はライトアップも。
道町通りと寺町通りの交差点にあり、夜はライトアップも。
道標の4面には方角と案内が刻まれています。
北面には「すぐ熊野道」の5文字。
この「すぐ」は「もうじき」ではなく、「まっすぐ行くと熊野古道」という意味だとか。
北面には「すぐ熊野道」の5文字。
この「すぐ」は「もうじき」ではなく、「まっすぐ行くと熊野古道」という意味だとか。
南・東の2面にも案内が彫刻されています。
彫られている文字は旧仮名遣い。読解にチャレンジするのも楽しいですよ。
(当記事の終わりに解答を掲載)
彫られている文字は旧仮名遣い。読解にチャレンジするのも楽しいですよ。
(当記事の終わりに解答を掲載)
立石道標の斜向かいは「立石茶屋」という休憩所。
トイレもあります。
トイレもあります。
B 深専寺(じんせんじ)
立石道標の角から西方、寺町通りを行くと右手にあるのが「深専寺」。西山浄土宗の寺院。
本堂の建立年代は寛文3年(1663年)。近世初頭の大火の後、紀州徳川家の寄進で再建されたそうです。
本堂の建立年代は寛文3年(1663年)。近世初頭の大火の後、紀州徳川家の寄進で再建されたそうです。
熊野信仰が盛んだった頃、法皇や上皇など貴族の宿泊施設だったという「深専寺」。
境内は1067坪という広さがあり、「本堂」と「惣門」(そうもん)、「庫裡」(くり)、「玄関」「書院」は県の文化財に指定されています。
境内は1067坪という広さがあり、「本堂」と「惣門」(そうもん)、「庫裡」(くり)、「玄関」「書院」は県の文化財に指定されています。
門と本堂の屋根に立派な「しゃちほこ」が飾り付けられてますね。
「しゃちほこ」は虎そっくりな頭、からだは魚、背中には恐竜のような鱗(うろこ)が尖った空想の獣です。お腹は水で満たされ、火災が起きればそれを噴き出し、鎮火にあたるとか。
「しゃちほこ」は虎そっくりな頭、からだは魚、背中には恐竜のような鱗(うろこ)が尖った空想の獣です。お腹は水で満たされ、火災が起きればそれを噴き出し、鎮火にあたるとか。
C 地震と津波の碑(「大地震津波心得之記碑」)
「地震と津波の碑」は深専寺の山門、左脇に建てられた石碑。建立は本堂の建立から約200年後、安政3年(1857年)です。
湯浅町は嘉永7年(1854年)、大地震と津波で甚大な被害を受けました。深専寺の26世善徴上人(承空上人)が、後世の町民を戒めるため、この碑を建てたそうです。
湯浅町は嘉永7年(1854年)、大地震と津波で甚大な被害を受けました。深専寺の26世善徴上人(承空上人)が、後世の町民を戒めるため、この碑を建てたそうです。
碑文の彫刻は西森忠兵衛。紀州藩・第10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ)から短刀を賜った名工です。
石碑にはこんな言葉が。
・この地には、津波が起こる前兆に言い伝えがあった(井戸水の「減少」や「濁り」)
・しかし今回の地震ではその予兆がなかった
・今後、地震が起こったら火の用心をし、すぐに津波にそなえよ
・その際、浜辺や川に逃げるな
・深専寺の前を東方、天神山に避難せよ
善徴上人(ぜんちょうしょうにん)による訓戒(くんかい)です。
石碑にはこんな言葉が。
・この地には、津波が起こる前兆に言い伝えがあった(井戸水の「減少」や「濁り」)
・しかし今回の地震ではその予兆がなかった
・今後、地震が起こったら火の用心をし、すぐに津波にそなえよ
・その際、浜辺や川に逃げるな
・深専寺の前を東方、天神山に避難せよ
善徴上人(ぜんちょうしょうにん)による訓戒(くんかい)です。
裏側をよく観ると……
寄付連名に「大坂屋三右エ門」(おおさかやさんえもん)の名が。
「大坂屋三右エ門」といえば、湯浅町の特産品「金山寺味噌」を江戸時代、一子相伝で守りついだ由緒ある名前。
江戸時代の碑銘に湯浅町の歴史が読み取れますね。
「大坂屋三右エ門」といえば、湯浅町の特産品「金山寺味噌」を江戸時代、一子相伝で守りついだ由緒ある名前。
江戸時代の碑銘に湯浅町の歴史が読み取れますね。
D 顯國神社(けんこくじんじゃ)
「顯國神社」は社伝によると延暦20年(801年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が湯浅町の神々を崇敬し、大國主明神(おおくにぬしみょうじん)を祀るために別の地に社を建てたのが始まりとされ、その後、湯浅発展の礎を築いた湯浅宗重により、天養元年(1144年)にこの地にうつされたといわれています。以降、氏子らの崇敬を集め、地元の人々からは「大宮さん」と呼ばれる湯浅町の総鎮守です。
毎年10月18日、顯國神社で催されるのが「湯浅祭」。多くの氏子が参加し、神輿の行列や三面獅子舞の奉納が行われるそうです。この祭の呼び物が「組馬(箱馬、町馬)」でした。
「組馬」は「流鏑馬」(やぶさめ)※を原型にする行事。各町が馬の装備や飾りに意匠を凝らし、並び歩かせたそうです。明治24年(1891年)の「湯浅祭」では、客馬合わせて90頭の馬が列を成し、有田地方最大の馬祭りとして賑わったとか。
※流鏑馬:疾走中の馬上から矢で的を狙う、伝統的な騎射のこと。
現在も儀式は続けられ、10月18日以降、最初の日曜日は復活した「組馬」やこども神輿が三面獅子舞などの神幸行列を先導し、町内を練り歩くそうです。
※流鏑馬:疾走中の馬上から矢で的を狙う、伝統的な騎射のこと。
現在も儀式は続けられ、10月18日以降、最初の日曜日は復活した「組馬」やこども神輿が三面獅子舞などの神幸行列を先導し、町内を練り歩くそうです。
E 大仙堀(だいせんぼり)
かつて醤油の原材料や商品の積み出しで賑わった「大仙堀」。
湯浅の醤油はここを拠点に全国へと運ばれました。
湯浅の醤油はここを拠点に全国へと運ばれました。
石積みの堀と醤油蔵を眺め歩くと、歴史情緒に浸れます。
F 北の町老人憩の家
「北の町老人憩の家」は多目的スペース、トイレが設けられています。
向かいには、湯浅町の歴史年表や絵図・古写真を展示する観光施設「岡正」があります。
向かいには、湯浅町の歴史年表や絵図・古写真を展示する観光施設「岡正」があります。
2階には丸窓が備え付けられていて、伝建地区を一望できます。
G 伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)
醤油醸造を中心に栄えた湯浅の風情を現代に残し、平成18年(2006年)、国から「重要伝統的建造物群保存地区」(伝建地区)に選定されたエリア。観光客は年間5万人を越えます。
「伝建地区」には町家など主屋のほか、寺院、神社、浴場など築50年以上経過した140棟の伝統的建造物、「大仙堀」や石積などの工作物、さらに樹木・前栽などの環境物件が一体となり、湯浅町の歴史的景観を形作っています。
「伝建地区」は湯浅の旧市街地の北西部に位置し、東西約400m、南北約280mにわたります。
町並みは「通り」と「小路」(しょうじ)で区分けされ、茶屋や菓子屋など、風情を感じさせる店が立ち並びます。
町並みは「通り」と「小路」(しょうじ)で区分けされ、茶屋や菓子屋など、風情を感じさせる店が立ち並びます。
写真は「楠山鮮魚店」の店先。並べられているのは「焼き鯖」です。
焼きたての香り、ぷりっと厚い身……あつあつのご飯でいただきたいですね。
天井にはレトロな虫除けが下がり、焼き鯖の上を紅白の帯がクルクルと回転しています。
焼きたての香り、ぷりっと厚い身……あつあつのご飯でいただきたいですね。
天井にはレトロな虫除けが下がり、焼き鯖の上を紅白の帯がクルクルと回転しています。
建造物の壁、あちこちに写真のような「せいろミュージアム」という展示コーナーが。
飾り棚は家庭で蒸し器として使われていた「せいろ」です。
飾り棚は家庭で蒸し器として使われていた「せいろ」です。
こちらは「大八車」(だいはちぐるま)。
名前の由来、ご存知ですか?
一説によると「この荷車一台で、大のおとな8人分の仕事が賄える」という機能性から付けられたとか。
名前の由来、ご存知ですか?
一説によると「この荷車一台で、大のおとな8人分の仕事が賄える」という機能性から付けられたとか。
「建地区」にはギャラリーもあります。
お邪魔したのは「北町ふれあいギャラリー」。
この日は「ひな祭」のイベントが開催されていました。
ギャラリーをはじめ、町中に雛人形が飾られ、あでやかな雰囲気でした。
「北町ふれあいギャラリー」は定期的に展示を変えるようです。
湯浅町の観光パンフレットもいただけます。
この日は「ひな祭」のイベントが開催されていました。
ギャラリーをはじめ、町中に雛人形が飾られ、あでやかな雰囲気でした。
「北町ふれあいギャラリー」は定期的に展示を変えるようです。
湯浅町の観光パンフレットもいただけます。
北町ふれあいギャラリー
開館時間:午前9時~午後5時
休館日:水曜日、年末年始(水曜日が祝日の場合はその翌日)
H 福蔵寺(ふくぞうじ)
伝建地区を少し出て、中町通を南に進んだところにあるのが「福蔵寺」。浄土真宗本願寺派の寺院。 墓地には「地震と津波の碑」の碑文を彫刻した名工・西森忠兵衛や、「有信舎」(ゆうしんしゃ)※を設立した哲学者・医者の鎌田一窓(かまたいっそう)らが眠ります。
※「有心舎」:平民的な人間の生き方、道徳などをテーマにした「心学」(しんがく)を説いた塾。創立は江戸時代。
※「有心舎」:平民的な人間の生き方、道徳などをテーマにした「心学」(しんがく)を説いた塾。創立は江戸時代。
「福蔵寺」の対面には「大坂屋三右エ門」(おおさかやさんえもん)の店があります。
「地震と津波の碑」の寄付連名に刻まれていた「大坂屋三右エ門」の名、こちらの看板にも大きく書かれていますね。
湯浅町の特産品「金山寺味噌」は鎌倉時代、僧・覚心(かくしん)※が中国の「経山寺」(きんさんじ)で味噌作りを修得し、湯浅に広めたもの。
商品として製造されるのは江戸時代。「大坂屋三右衛門店(玉井醤本舗 北村家)」が製法を一子相伝のものとして伝承し、諸国に販売しました。
町ぐるみで販売するようになるのは明治以降のこと。
※覚心:法燈国師(ほっとうこくし)
湯浅町の特産品「金山寺味噌」は鎌倉時代、僧・覚心(かくしん)※が中国の「経山寺」(きんさんじ)で味噌作りを修得し、湯浅に広めたもの。
商品として製造されるのは江戸時代。「大坂屋三右衛門店(玉井醤本舗 北村家)」が製法を一子相伝のものとして伝承し、諸国に販売しました。
町ぐるみで販売するようになるのは明治以降のこと。
※覚心:法燈国師(ほっとうこくし)
I 文平(紀伊国屋文左衛門)の像
寛文9年(1669年)頃、湯浅で生まれたといわれる「紀伊国屋文左衛門」(「文平」は幼名)の像。
文平は船に紀州みかんを載せ、嵐のなかを出航。江戸と紀州の往来で莫大な利益を得ました。勇猛果敢な生き様は講談や浪曲で語り継がれています。
文平は船に紀州みかんを載せ、嵐のなかを出航。江戸と紀州の往来で莫大な利益を得ました。勇猛果敢な生き様は講談や浪曲で語り継がれています。
「紀伊国屋文左衛門」の記念碑は、「勝楽寺」(しょうらくじ/湯浅町)にも建てられているそうです。
J 栖原海岸(すはらかいがん)/「和歌山の朝日・夕陽100選」スポット
湯浅町の北西にある「栖原海岸」。
鷹島(たかしま)や刈(苅)藻島(かるもじま)を見渡す眺めと、美しいリアス式海岸に恵まれた「栖原海岸」の景観は、「和歌山県の朝日・夕陽100選」にも選ばれています。
鷹島(たかしま)や刈(苅)藻島(かるもじま)を見渡す眺めと、美しいリアス式海岸に恵まれた「栖原海岸」の景観は、「和歌山県の朝日・夕陽100選」にも選ばれています。
夏は海水浴やシーカヤック、無人島探検などのアクティビティを楽しむ観光客で賑わう「栖原海岸」。
温泉も近く※、リラクゼーションにも最適な観光スポットです。
※「栖原温泉」まで車で約5分、「湯浅温泉 湯浅城」まで車で約10分。
温泉も近く※、リラクゼーションにも最適な観光スポットです。
※「栖原温泉」まで車で約5分、「湯浅温泉 湯浅城」まで車で約10分。
古代~現代へ 時代を超えた歴史ロマン
起源は古代にあるとされる「熊野詣」。最盛期には街道に人がごったがえし、その様子は「蟻の熊野詣」と称されたとか。和歌山県湯浅町にも熊野古道・紀伊路(きいじ)が通り、この道は「立石道標」につながります。そこからは江戸~昭和の雰囲気をたたえる「伝建地区」がすぐ。醤油蔵から立ち上る香ばしい香りやレトロな商店を楽しみ、甘味や名物で一息ついたあと、栖原海岸へ向かえば ―― 太古の人々も眺めたであろう見事な夕陽と対面。ロマンチックな散歩道になりそうですね。
【解答】立石道標の案内
<クイズ>
A「立石道標」の南面・東面に刻まれた文字の読みは?
<答え>
東面:「きみゐでら」(紀三井寺)
南面:「いせかうや (みち)」(伊勢 高野 (道))
A「立石道標」の南面・東面に刻まれた文字の読みは?
<答え>
東面:「きみゐでら」(紀三井寺)
南面:「いせかうや (みち)」(伊勢 高野 (道))